回顧展開催への道

発案 


鈴木清一回顧展実行委員会の代表・事務局を務めた清一の三男・鈴木耕三が、今回の回顧展を開催するに至った経緯をご紹介します。

1.回顧展をやろう!  2.初期の計画  3.大震災と転勤  
4.退職を機に再出発  5.本格的な準備


1.回顧展をやろう!

最初に鈴木清一回顧展の開催を思いついたのは、1993年頃だったと記憶しています。父は1895年に生まれたので、1995年に『鈴木清一生誕100年記念回顧展』を開いてはどうだろうと、兄の藍作と話をしたことからこの計画が始まりました。戦後、清一は画壇活動を離れたために世の中から忘れられてしまいましたが、生誕100年を迎える年に清一の生涯とその画業を回顧する機会を作ろうではないかというのがその趣旨でした。

※藍作(あいさく)は清一の長男で、現在ドイツで陶芸家として活動している 藍作のWebサイト(ドイツ語と英語のみ)。今回の回顧展開催を機会に帰国する予定だったが、国際テロ事件が発生したため、残念ながら帰国を断念することになった。

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2.初期の計画

最初は会場選びから始まりました。東京美術学校在学時代から戦前の帝展・文展出品時代を経て、1979年に84歳で絶筆するまでの作品を一堂に集めるとなると、少なくとも50点の作品を展示できる会場が必要になります。街中にある一般の貸ギャラリーでは狭すぎるので、もっと広い場所を探さなければなりませんでした。

1994年10月から11月にかけて、神戸市の主催で開かれた『小松益喜画業70年展』がヒントになりました。会場は神戸市庁舎1号館2階の神戸市役所市民ギャラリーで、F6からF100までの約50点の作品が並んでいました。ここなら展示スペースとしては充分だし、何よりも清一は小松さんと同じように「郷土の洋画家」として神戸市文化賞を受賞しているので、神戸市役所市民ギャラリーは鈴木清一回顧展の会場としては最適の場所だと思ったのです。

そこで早速、神戸市市民局文化振興課にご説明したところ、神戸市では市民ギャラリーにおいて神戸市文化賞受賞作家を中心に企画展を開催してきているので、その一環として鈴木清一回顧展を神戸市の主催で開催することにしましょうという願ってもない回答を頂いたのです。展示作品の所在を神戸市に連絡すれば、作品の借用、運搬、開催案内などの仕事は神戸市が引き受けるということでした。わたしは大喜びで木曜会(清一が永年講師を務めた三菱重工・神戸造船所の洋画同好会)の旧・現会員をはじめ、清一のお弟子さんや教え子のみなさんに手紙を書いて所蔵作品の調査を始めるとともに、茨城県近代美術館と東京銀行神戸支店にある清一の作品を借り出すための準備に取りかかり、間もなく展示作品を確保することの目処をついることができました。清一の作品データベースもこの時に作り始めました。

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3.大震災と転勤

ところが、1995年1月17日の早朝、あの恐ろしい阪神大震災が起こったのです。この年の10-11月に展覧会を開催するという当初の計画は中止のやむなきに至りました。街は瓦礫の山と化しました。学校や集会所だけでなく、市庁舎のロビーまでも家を失った人たちで膨れ上がりました。しばらくして、空き地には仮説住宅が建ちはじめましたが、テント生活を強いられた人たちも大勢いました。こんな状況の時にわたしは東京へ転勤になりました。1995年6月のことでした。これで回顧展の開催はますます遠のいてしまいました。

3年後の1998年6月にわたしは神戸に戻りましたが、街はまだ復興の真最中でした。念のために神戸市市民局に問い合わせてみましたが、庁舎2号館が大きな被害を受けたために事務所スペースが不足し、さらに市民相談業務が激増したために市民ギャラリーは市民相談コーナーとなり、ギャラリー関係予算もなくなってしまい、市民ギャラリーとして復活できるかどうかも分らないとのことでした。これでは神戸市の主催で展覧会を開催することなど、少なくとも当分の間は無理だと考えざるを得ませんでした。しかし、街に落ち着きが戻ってくるにつれて、清一の昔のお弟子さんたちからは、早く回顧展を開いて欲しいという要望が出始めました。

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4.退職を機に再出発

2000年6月末に、わたしは63歳で会社を退職しました。あと2年間働く機会はあったのですが、懸案の回顧展をなるべく早く開催するためにも、元気なうちに自由な時間を持てるようにしようと決心したのです。

しかし、市役所の建物は展覧会の会場には使えないので、神戸市内で別の場所を探さなければなりませんでした。幸いにして手頃な会場が元町通4丁目に見つかりました。神戸市立まちづくり会館ギャラリーです。このギャラリーは日曜画家や日曜写真家がよくグループ展を開くところで、一般の貸ギャラリーに比べて展示スペースが広く、料金が手頃なことも魅力でした。開催期間は6日間に限られるのですが、これは止むを得ません。2001年10月に開催することにして、会場の予約を済ませました。開催1年前の昨年10月はじめのことでした。今回は神戸市に主催して頂くことができず、後援ということになりました。すべての準備は自分の手で進めなければならないことになったのです。

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5.本格的な準備に取りかかる

5年前の調査で作品の所在はかなり掴んでいましたが、必ずしも充分なものではなかったので、今回は調査の範囲を広げ、清一の古い知人やその家族にも電話や手紙で問い合わせました。口コミで新たな所蔵家が見つかることがよくありました。所蔵家を訪ねて作品を見せて頂き、作品名、制作年、画法、画材、寸法、署名、所蔵者名などの情報をデータベースに入力し、併せて写真を撮影して歩く日々が続きました。回顧展が終わった今日でも清一の作品が引き続き見付かっているので、データベースは未だ完成してはいませんが、デッサンまでを含めると今日までにおよそ1,000点の作品の入力を終えています。

回顧展を開催する目的は、清一のお弟子さんや教え子たちに昔をなつがしんで頂くだけでなく、忘れ去られた鈴木清一という画家の存在を思い出してもらわねばなりません。このためには、できるだけ多くの人にこの展覧会を観てもらい、清一の生涯と画業を再発見し、再評価してもらう必要があります。清一のお弟子さんや知人や一般の美術愛好家に観て頂くだけではなく、美術評論家、美術館学芸員、美術関係のオピニオンリーダーなどにも清一の画業に関心を持って頂くことが重要です。そのためには、マスコミや自治体などにも働きかけなければなりません。そこで、わたしはドイツにいる兄と電子メールで連絡を取りながら、回顧展開催趣意書と清一の経歴書の作成に取りかかりました。



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