バックナンバー 2002年 4月号


2002年4月の今月の一枚は『菊池辰重氏像』(1925年)です。


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2002年3月:『代々木風景』
2002年2月:『春のうた』
2002年1月:『雲と牛』
2001年12月:『天王山農場』
2001年11月:『初秋』

2001年10月:『月見山風景』
2001年9月:『孔雀』



▲ 『菊池辰重氏像』(1925年)
油彩、カンヴァス、45.5×37.8cm
個人蔵(水戸市)


この作品のカンヴァスの裏面に清一は次のように墨書しています。

大正14年秋、下野宮は重一が家に泊り、
水の如き淡き地酒と梅干しの甘いやつを馳走になり、
そのお礼にと此の拙き像を描きて、重一に呈す次第なり。
11月9日、麗しき日光に浴しながら、重一が友 清一しるす。



 下野宮は茨城県久慈郡大子町の農村で、重一というのは清一の生涯の親友だった菊池重一氏のことです。
 清一と重一氏との出会いは、1924年に水戸市で開かれた第1回白牙会展覧会だったようです。この白牙会については、同年10月24日付の東京日々新聞茨城版に次のように報じられています。

日本画発祥の地とまでいはれる本県も、洋画の方ではまだ世間の視聴をひくべき気運に至らぬのを遺憾とし、郷土芸術鼓吹の先駆者たる意気を以て、さきに白牙会を組織した林正三、寺門幸蔵、斉藤勇太郎、菊池五郎其他諸氏同人等は愈々来る11月1日から6日間、水戸商業会議所楼上に第1回絵画展覧会を開き、洋画熱鼓吹の機会を作ることになった。さきの黒光社展が素人の作品として特殊の余韻を伝へたのに比し、今回は美術学校出身の新進同人たちが開く玄人展である。出品点数は県出身の大先輩たる熊岡美彦氏会心の作たる『椿』以下数点を始め、鈴木良三、鈴木清一等の帝展常連及同人作品等50余点であり、地方芸術展としてはむしろ異例な力作そろひであらう。なほ同氏等の作品は何れも郷土自然の環境から生れたものだけに、鑑賞するものにとっても親しみ深い作品であり、郷土芸術の芽生えは青年画家たちのもゆるやうな生命力の躍動と相まって、切実なる感興をそそるであらう。


 また、同年11月2日付の国民新聞は展覧会の模様を次のように報じています。

1日招待日で華々しく開会した白牙会の展覧会は、最近水戸では稀に見る佳作が多く、菊池五郎氏外白牙会同人の作品及帝展審査員中村氏、辻永氏等の出品あり、総数61点に及んでいる。これらの内観客の目を喜ばせたのは中村氏『花』、辻永氏『城下の秋』、小林鐘吉氏『田園』、熊岡美彦氏『椿』、鈴木清一氏『風景』、鈴木良三氏『雑司ヶ谷の夏』、菊地五郎氏『六月の頃』、寺門幸蔵氏『茶器の図』、林正三氏『白樺』などであった。



 東京・代々木にアトリエを構え、1921年から帝展に毎年入選を続けていた清一は、第1回白牙会に招待を受け、風景画と静物画各1点のほかに『浴女』(今月の一枚3月号を参照)を出品したのでした。なお、白牙会展覧会は翌年以降も1942年まで毎年開かれており、清一は1933年まで出品を続けました。

 白牙会展覧会で知り合った清一と重一氏との友情は生涯変わることはありませんでした。1925年に清一は茨城県の大子警察署長の肖像画の描くために大子を訪れていますが、このときに清一は重一氏の自宅に滞在して付近の景色を写生したり、菊池家の人々と親交を深めたのです。この滞在中に描いた作品の一つが『菊池辰重氏像』でした。清一は後になってこのときの思い出を手記に綴っています。

 30年以前のことだが、茨城県の北部、八満山麓の山村に友人を訪ねて写生に出掛けたことがある。秋たけなわのころであった。友人の老母が漬けたしその実のみそ漬けを馳走になったことがある。麻の袋に入れ、みそを仕込むときに一緒に入れておくのだそうだ。
これは珍味であった。酒に良く、茶漬けに良く、滞在中にほとんど食べてしまったことがある。

  (清一手記、1956年5月頃)


  清一はまた『田舎の友』と題した次のような手記を残しています。

 田舎で半百姓をしている友人から時々手紙をもらう。文章も味があり書くこともあけすけで字もうまい。終わりに歌か俳句を一、二首書き添へてあるのが常だ。終戦後初めての元旦にくれた賀状に「飛ぶはみな米機ばかりなり御代の春」という俳句とも川柳ともつかぬ一句が書いてあった。やりきれない敗戦の惨めなあの年の正月を、薄ら笑いながら山家のくすぶった百姓家の炉端で手作りの濁り酒を飲んでいるだろう友人をしみじみ考えた。
 最近わたしの移転通知を見て「須磨寺の近くへ越して春の風」と書いてよこした。これはわたしから書くところを逆に書いてよこしたと妻に話して笑い合った。わたしが貧乏で金に縁のない男のせいか、この友人もあまり金に縁のない男だ。類は友を呼ぶというがそのとおりだ。いつの手紙にも貧乏話が書いてある。しかし、彼の貧乏話は屈託がなくてのびのびと明るい。そして自分の貧乏を嘲笑するかのような句が終りに書いてあるのを見ると、わたしまで伸び伸びとするから不思議だ。

  (清一手記、1956年5月頃)





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