バックナンバー 2002年 6月号


このページでは、鈴木清一の作品を毎月一点づつ取り上げ、作品にまつわる話題などとともにご紹介していきたいと思います。
このページについてのご意見やご質問、あるいは関連情報などをお待ちしています。

バックナンバー
2002年5月:『赤い本』
2002年4月:『菊池辰重氏像』
2002年3月:『代々木風景』
2002年2月:『春のうた』
2002年1月:『雲と牛』
2001年12月:『天王山農場』
2001年11月:『初秋』

2001年10月:『月見山風景』
2001年9月:『孔雀』


 今月は清一の最後の作品となった
『舞子の松』(1979年)を取り上げることにします。

『舞子の松』


▲ 鈴木清一作『舞子の松』(1979年)
油彩・カンヴァス、60.6×50.0cm
個人蔵(神戸市)


1974年に最愛の妻・八千代に先立たれた清一は、神戸市灘区篠原本町の自宅で独り暮らしを続けていました。
彼はよく「ぼくはボケッとテレビなんかを見ていないで、常になんかしよう(何かしよう)としているから、脳軟化症なんかにはならないんだ」と楽しそうに洒落を飛ばしていました。間もなく84歳の誕生日を迎えようとしていた彼の健康状態はいたって良好で、毎日の食事の支度から食器の後始末に至るまで、自分の身の回りのことはすべてきちんとこなし、しかも寸暇を惜しんで制作に没頭していました。

ところが1979年夏のある朝、清一は突然脚の痺れを訴え、神戸市灘区の海星病院で検査を受けた結果、脳血栓と診断されて直ちに入院することになりました。病院のベッドで寝たきりの状態になった清一の体力は急速に衰え、悪いことには痴呆症も進行して、再びアトリエへ戻ることはできない状況になりました。その後、海星病院を退院して神戸市須磨区の家族の許へ一時戻りましたが、ひと月後には神戸市垂水区の佐野病院へ再入院し、1979年11月27日の早朝、肺炎を併発して84年4か月と4日間の生涯に終止符を打ったのです。

主のいなくなったアトリエに残された画架に載っていたのがこの『舞子の松』でした。清一が「未だ省略が足りない」と独白しながら、文字通り最後まで試行錯誤を繰り返しながら描いたもので、松の幹のハイライトに金粉を使うなどの工夫を凝らしている点にもご注目下さい。

清一は若い頃から松林をモチーフにした作品を好んで描いており、現在までに所在が明らかになっているものだけでも、その数は50点を軽く超えています。松林はいわば清一のトレードマークのようなものでした。現在のように開発が進む以前の神戸には、至る所に赤松や黒松が密生していました。中でもこの作品に描かれている舞子公園には南から吹きつける強い潮風を遮るように松の大木が群生し、木の間越しに明石海峡と淡路島を望むわが国有数の景勝地として、須磨浦公園と並んで有名な場所でした。しかし、この作品が描かれた約20年後に完成した明石海峡大橋によって、付近の景観が一変してしまったことは誠に残念です。



『松』


▲ 鈴木清一作『松』(1978年)
フェルトペン・色紙、27.0×24.0cm
個人蔵(埼玉県朝霞市)

1978年に清一は神戸市文化賞を受賞しました。
木曜会会員を中心とする清一の教え子たちによって開かれた「鈴木清一画伯神戸市文化賞記念祝賀会」(舞子ビラ、1978年10月8日)の席上、清一は余興で色紙にフェルトペンを使って松を描き、教え子のひとりに贈りました。


戦前から戦後にかけて、清一の一家が永らく暮らした神戸市須磨区月見山町の自宅周辺にも、鬱蒼とした美しい松林が広がっていました。月見山の松林は清一だけでなく、彼の弟子たちも繰り返し描いています。

『夏の朝』

▲ 佐伯久作『夏の朝』(1936年)
油彩・カンヴァス
『初秋』



▲ 丸山芳夫作『初秋』(1936年)
油彩・カンヴァス

佐伯久は清一が台湾旅行中に出会い、後に清一の弟子となった画家で、1930(昭和5)年の第4回台湾美術展覧会に《早春の松林》を出品して特選に選ばれています。清一の招きで神戸へ来てからは鈴木家に住み込んで絵画の研鑽を積み、1936(昭和11)年の文展鑑査展に月見山の松林を描いた《夏の朝》を出品して入選を果たしました。清一の入院後、清一の推薦で木曜会の講師を務めました。元一水会会員。

丸山芳夫は三菱重工神戸造船所の木曜会創設当初からの熱心な会員で、月見山の松林を描いた《初秋》が1936(昭和11)年の文展鑑査展に入選しました。
また、増田豊太郎は戦前から戦後にかけて、神戸でレコード店「マスダ名曲堂」を経営していた日曜画家ですが、彼も月見山の松林を描いた《松の森》で1938(昭和13)年の第2回新文展に入選を果たしました。



『松の森』


▲ 増田豊太郎作『松の森』(1938年)
油彩・カンヴァス

現在の月見山には当時の面影は全く残っていません。曾て風致地区の標識が立っていた場所には、阪神高速道路公団の高架道路が空を切り裂くように走り、その上を大形車両が絶え間なくうなりをあげて走り過ぎています。昔の松林は跡形もなくなり、住宅が密集する場所に変わってしまいました。車の排気ガスと騒音という環境破壊に加えて、自然景観というかけがえのない環境までが破壊されてしまったのは、誠に残念なことです。


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