バックナンバー 2002年 7月号


このページでは、鈴木清一の作品を毎月一点づつ取り上げ、作品にまつわる話題などとともにご紹介していきたいと思います。
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過去のバックナンバー
2002年6月:『舞子の松』
2002年5月:『赤い本』

2002年4月:『菊池辰重氏像』
2002年3月:『代々木風景』
2002年2月:『春のうた』
2002年1月:『雲と牛』
2001年12月:『天王山農場』
2001年11月:『初秋』

2001年10月:『月見山風景』
2001年9月:『孔雀』


 2002年7月は『会下山風景』を取り上げました。


▲ 鈴木清一作『会下山風景』(1931年頃)
油彩・板、 21.1×27.2cm、
個人蔵(神戸市)


『初秋の丘』が第3回帝展(1921年)に入選して以来、清一は第7回帝展(1926年)まで連続入選を果たし、さらには平和記念東京博覧会(1922年)、日仏交換美術展(1922年、パリ)、白牙会展(1924年、1925年)、第1回聖徳太子奉賛美術展(1926年)などにも意欲的に出品しています。

こうして画家の道を順調に歩み出した清一は、かねてからの夢だったフランス留学を実行に移すことを決意します。1927年に彼はひとまず台湾に住む知人の許に身を寄せ、1年余りの間、渡航費を稼ぎながら出航の機会を窺っていました。そこへ郷里の水戸から一通の電報が届きます。それは父・国三郎死亡の知らせでした。清一の中央画壇での活躍を心から喜び、フランス留学を強く支援してくれていた父の死は彼にとって大きな衝撃でした。

彼は急いで水戸へ戻り、父の葬儀を済ませましたが、彼の最大の理解者であった父がいなくなった今となっては、母と弟の二人を残したまま国を離れることはできないと悟りました。彼はこれも運命と諦めて、次の機会を待つことにしたのですが、ついにその機会が訪れることはなかったのです。この台湾滞在中に出会ったのが画家志望の14歳の少年・佐伯久(1913〜1988)でした。彼は清一に弟子入りをして職業画家になるための修業を積み、戦後は一水会で活躍することになります。

第8回帝展(1927年)への出品を見送った清一は、翌年の第9回帝展に復帰して以来、全精力を傾けて制作活動に打ち込みました。この結果、1934年の第15回帝展まで連続入選し、1936年には再編なった新文展の無鑑査に推薦されるに至りました。この期間に清一の生活には大きな変化が訪れています。ひとつは同郷の洋画蒐集家・跡部操氏(1888〜1945)との出会いであり、もうひとつは八千代との結婚でした。
跡部氏は幕末の水戸藩士・武田耕雲斎の孫に当り、神戸と東京でアトベ精肉店を経営して財を成した人で、和田三造氏の作品を中心とした『跡部操コレクション』は全国的にもよく知られていました。この跡部氏から招かれて、清一が水戸から神戸へやってきたのは1929年のことです。彼は神戸市林田区(現在の兵庫区)御崎町の跡部氏の自宅内にアトリエを構え、ここで第11回帝展(1930年)の入選作品『孔雀』を制作しました。なお、当時の跡部氏の自宅には画家の橋本邦助氏も寄宿していました。




▲『跡部操コレクション展』
(1930年1月、三越神戸店)

前列左から1人おいて跡部操氏、橋本邦助氏、跡部夫人、1人おいて清一と跡部氏の養女・寛子が並ぶ。左側壁面に和田三造作『ポンペイを憶ふて』(第10回帝展入選作)が見える。跡部操コレクションは1945年の神戸大空襲で惜しくも全焼した。この中には40余点にのぼる和田三造氏の作品が含まれていたという。


清一はごく軽い気持ちで神戸へやって来たようですが、ここでしばらく暮らすうちに自由な雰囲気のある風光明媚なこの街がすっかり気に入ってしまい、ここを永住の地とすることを決心したのです。

1931年には幼馴染みの吉野八千代を水戸から呼び寄せて結婚し、湊西区(現在の兵庫区)会下山町に新しい家庭を築きました。そして翌年に長男が、また翌々年には次男と長女の双児が誕生し、さらには台湾からやってきた佐伯久もこの家に住みついたので、清一の周囲は一気に賑やかになりました。


長男・藍作のお守りを手伝う佐伯久(1933年10月頃):会下山の自宅近くの空き地で清一が撮影した。


三児の母となった八千代と長男・藍作と佐伯久(1933年10月頃):会下山の自宅前で清一が撮影した。写真の場所は、道路から玄関口までの石段が現在も残っており、神戸市街の中心部と神戸港が一望できる。

この『会下山風景』に描かれているのは清一の一家が住んでいた借家の近くの景色で、現在では当時の面影が殆ど残っていません。画面右手に描かれている建物は写真3に写っている高島邸のように見えます。近くにある善光寺で伺った話によれば、1945年の神戸大空襲で善光寺は焼失したのですが、この一帯の住宅は類焼を免れました。

この高島邸も残っていたのですが、後に土地建物が神戸市に買い上げられ、現在は会下山小公園になっています。ごく小さな作品ですが、清一独特の非常に大胆で力強い筆さばきにご注目下さい。


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