バックナンバー 2002年 8月号


このページでは、鈴木清一の作品を毎月一点づつ取り上げ、作品にまつわる話題などとともにご紹介していきたいと思います。
このページについてのご意見やご質問、あるいは関連情報などをお待ちしています。

バックナンバー
2002年7月:『会下山風景』
2002年6月:『舞子の松』
2002年5月:『赤い本』

2002年4月:『菊池辰重氏像』
2002年3月:『代々木風景』
2002年2月:『春のうた』
2002年1月:『雲と牛』
2001年12月:『天王山農場』
2001年11月:『初秋』

2001年10月:『月見山風景』
2001年9月:『孔雀』


 今月は『九歳の八千代』(1914年)
を取り上げることにします。

『九歳の八千代』


▲鈴木清一作『九歳の八千代』(1914年)
水彩・紙、35.1×25.3cm
個人蔵(神戸市須磨区)


1913年3月に茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業した清一は、同年5月に赤坂溜池洋画研究所に入って黒田清輝に師事し、翌1914年4月に憧れの東京美術学校西洋画科(現在の東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻)への入学を果たしました。

水戸で近所に住む幼馴染みの少女・吉野八千代を描いた『九歳の八千代』は、美術学校入学が決まった清一が東京の下宿へ持っていくために描いたものだったのでしょう。今から90年近くも前の水彩画とはとても思えないような鮮やかな色彩と、清楚な八千代の姿がとても印象的です。

幼馴染みとはいっても、清一は八千代より10歳も年上でしたから、兄と妹のような間柄だったようです。彼女は絵が上手くて優しい清一について回り、よく「セイちゃん、絵を描いて」と甘えていたということです。八千代は5人兄弟の末っ子で、父親からは殊のほか可愛がられていたようですが、この父は八千代が12歳のときに亡くなり、母親もその翌年に亡くなりました。兄たちは職を得て水戸を去り、彼女は10歳上の姉に引き取られていたので、清一が兄の代役を務めていたのでしょう。




この作品が描かれた17年後に二人は結婚しました。
清一35歳、八千代25歳のときでした。大きな赤いリボンを結んだ愛らしい八千代の背後に描かれている額縁が、二人の未来を暗示しているかのようです。

清一は八千代をモデルにした作品を何度も描いていますが、この『九歳の八千代』は現存するものの中では最も古い作品です。八千代の死後、わたしは清一からこの水彩画を形見として貰ったのですが、それまで彼はずっと自分の手許に秘蔵していたのです。東京で一人暮らしをはじめた若い画学生の清一は、密かにこの絵を見て、八千代への恋慕の情を断ち難く感じていたに違いありません。この絵をわたしに手渡しながら、彼は遠い昔の日々を懐かしむように、わたしにこんな話をしたのでした。
「まだ幼かった八千代が登校途中の路上で転び、鞄の中のものをぶちまけてしまったのを拾ってやりながら、この子の面倒を見てやれるのは自分だな、と強く意識したんだよ」




鈴木清一作、『小唄集』(1916年)
墨、水彩・紙(40ページ、糸綴じ本)
16.0×12.0cm、 個人蔵(神戸市)

また、清一は1916年に『小唄集』という小さな本を作って八千代に贈っています。

晶子、哀花、白秋、牧水、夕暮、啄木の短歌20首を掲げ、1首ごとに愛らしい挿絵を丹精込めて描いた、清一会心の作品です。

本の扉には「小唄集 鈴木清一作 MAR.28, 1916」と記されていることから、美術学校の春休みに水戸へ戻った清一が、八千代にこっそりと手渡したものと思われます。これを貰った八千代はどんなに嬉しかったことでしょう。彼女はこの『小唄集』を終生宝物のように大切にしていました。



鈴木清一作、『小唄集』から「椿」
あさましく雨のやうにも花おちぬ 
わがつまつきしひともとの椿  晶子

鈴木清一作、『小唄集』から「矢車草」
にほやかに君がよき夜ぞふりそそぐ 
白き露台の矢車の花  白秋

鈴木清一作、『小唄集』から「恋」
大形の被布の模様の赤きはな 
今日も目に見ゆ六歳の日の恋  啄木


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