バックナンバー 2002年 9月号


このページでは、鈴木清一の作品を毎月一点づつ取り上げ、作品にまつわる話題などとともにご紹介していきたいと思います。
このページについてのご意見やご質問、あるいは関連情報などをお待ちしています。

バックナンバー
2002年8月:『九歳の八千代』
2002年7月:『会下山風景』
2002年6月:『舞子の松』
2002年5月:『赤い本』

2002年4月:『菊池辰重氏像』
2002年3月:『代々木風景』
2002年2月:『春のうた』
2002年1月:『雲と牛』
2001年12月:『天王山農場』
2001年11月:『初秋』

2001年10月:『月見山風景』
2001年9月:『孔雀』


 2002年8月の『九歳の八千代』に引き続き、
清一が妻をモデルに描いた
『八千代像』 (1936年頃)を取り上げることにします。

今月の一枚『』


▲鈴木清一作『八千代像』(1936年頃)
油彩・カンヴァス、80.0×64.0cm
個人蔵(神戸市北区)


この作品は昨年11月の「今月の一枚」でご紹介した『初秋』(1936年)とほぼ同じ時期に描かれたもので、場所も同じ須磨区月見山の自宅の庭先です。清一はこれを終生手許において大切にしていました。

当時の日本の国内・国際情勢は急速に厳しさを増していました。1936年のロンドン軍縮会議脱退(1月)、二・二六事件(2月)、日独防共協定調印(11月)、そして1937年7月には蘆溝橋事件が発生して、わが国は中国との全面戦争へと突入し、いよいよ破綻への道を突き進んでいくことになりました。

しかし、この作品の雰囲気は平和そのもので、当時の暗い世相は微塵も感じられません。八千代はすでに3児の母になっていましたが、まことに清楚で初々しい表情をしています。1936年に帝国美術院展覧会(帝展)が改組され、新たに発足した文部省美術展覧会(新文展)の無鑑査に推薦された清一には、間もなく訪れる「暗黒の時代」を未だ予見できていなかったのかも知れません。

それから40年余り後の1974年に、八千代が69歳でこの世を去ったとき、清一はこの秘蔵の作品を押し入れから取り出して霊前に飾り、43年間にわたって苦楽を共にした最愛の妻を偲んだのでした。



『草の上』
鈴木清一作、『草の上』(1929年)
油彩・カンヴァス
寸法不詳、所在不明(戦災で焼失?)

八千代をモデルにした清一の作品はほかにもあります。

1929年の『草の上』はその中の1枚です。この作品を描いた後で清一は跡部操氏の招きで神戸へ行くことになるのですが、このときには二人はすでに婚約していたのでしょう。

時代は少し遡りますが、1927年春頃に台湾へ渡り、台北の知人宅に身を寄せてフランスへの渡航準備をしていた清一は、1928年6月に父・国三郎死去の知らせを受けて水戸へ戻り、そのまま実家で制作を続けていました。

『草の上』はこの時期に描かれたもので、1929年の第10回帝展に入選しました。残念ながら現在では所在が分らず、図録の写真でしか観ることができません。おそらくは、終戦直前の水戸の空襲で焼失したのでしょう。



八千代と清一

第10回帝展に入選した『草の上』を制作中に、モデルの八千代と一緒に撮影した写真で、撮影時期は1929年8月、清一は34歳、八千代は24歳になっていました。

この写真の裏面には清一の自筆で「水戸にて八千代を描く、飛行船ツェッペリン伯号来る」と記されています。
当時の新聞記事を読むと、世界最大の飛行船「グラーフ・フォン・ツェッペリン伯号」は“8月15日、世界一周のためにドイツのフリードリッヒスハーフェンを出発、ウラル山脈を越えてシベリアを無着陸で横断し、8月19日の夕方、東京上空に姿を現わした”とあります。

『草の上』を制作中に、飛行船が二人の頭上を通過したのでしょう。


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