今月の1枚

バックナンバー 2003年 7月号


このページでは、鈴木清一の作品を毎月一点づつ取り上げ、作品にまつわる話題などとともにご紹介していきたいと思います。

バックナンバー

2003年 2002年 2001年

6月:『水戸弘道館』 
5月:『布引の新緑』
4月:『山ざくら』
3月:『水仙』

2月:『早春の六甲』
1月:『小菊』

12月:『根室原野の鶴』
11月: 『筑波山』 
10月: 『篠原本町の庭』   
9月: 『八千代像』  
8月:『九歳の八千代』  
7月:『会下山風景』
6月:『舞子の松』
5月:『赤い本』

4月:『菊池辰重氏像』
3月:『代々木風景』
2月:『春のうた』
1月:『雲と牛』

12月:『天王山農場』
11月:『初秋』

10月:『月見山風景』
9月:『孔雀』

「今月の一枚」の2003年7月号では、
清一が25歳の頃に描いた『婦人像』をご紹介します。

鈴木清一作 『水戸弘道館』(1954年)

▲鈴木清一作『婦人像』
(1920年頃)
油彩・カンヴァス、45.5×37.9cm
個人蔵(神戸市)


 彫りの深い瓜実顔をわずかに傾げ、もの憂げにこちらをじっと見つめる大きな瞳。清一が描いたこの美しい女性の名前を今ではもう知る術はありません。この作品は彼が東京美術学校西洋画科(現在の東京芸術大学美術部油画科)の研究科に在籍していた1920年頃に制作したもので、清一はこれを死の直前まで手許に置いて大切にしていました。わたしが父から直接聞いた話によると、東京美術学校の黒田清輝・藤島武二教授らにたいそう褒めてもらった思い出の作品だということでした。
 1919年3月に東京美術学校西洋画科での5年間の修業を終えた清一は、引き続き同校の研究科に残って1922年まで研鑽を重ねました。当時、彼は東京市外代々木山谷(現在の東京都渋谷区代々木4丁目付近)にアトリエを構えており(「今月の一枚」2002年3月号の『代々木風景』をご覧下さい)、ここでこの『婦人像』が描かれたのはほぼ間違いありません。
 当時の東京美術学校について少し述べておくことにしましょう。1913年12月24日の官報に東京美術学校(正木直彦校長)の翌年度入学志願者心得要領が掲載されています。これを見ると、入学志願者資格として「品行方正善良身体健全年齢満17年以上満26年以下ノ男子ニシテ‥‥」とあります。東京美術学校は戦後の1946年になるまで男子しか入学できなかったのです。なお、西洋画科の志願者に課せられた試験科目は木炭画のみで学科試験はありませんでした。
 1914年4月7日の官報には西洋画科の合格者34名(志願者108名)の名前が掲載されており、その中に「鈴木清一、茨城県平民」とあります。今の若い人には分からないでしょうが、当時は華族、氏族、平民という身分制度が存在していたのです。清一とともに西洋画科に合格した人の中には、後にヴラマンクに師事してフォーヴィズムを学んだ里見勝蔵や、『赤い鳥』『金の船』『コドモノクニ』などをめぐる童話童謡運動に参加して童画の世界を拓いた武井武雄らがいました。





東京美術学校校舎正面全景


この建物は1913年に落成、戦後も残されていたが、
1972〜73年に取り壊され、現在は門の一部だけが保存されている。
 

 清一は美術学校時代の一つの思い出を1956年頃の手記に書き残しています。

『話と声』

 わたしが上野の美校の生徒だった時に、印度の詩人タゴールが美校へ来られ、玄関前で生徒に挨拶したことがある。長身に薄茶の長い印度服をまとい、白い長髪を垂れた姿、輝く深いまなざしは強い印象に残っている。それよりも今でもはっきり覚えているのは翁の声の美しさである。

「諸君は筆や鑿によって芸術を創造する。わたしは文字によってわたしの芸術を創造する。わたしが日本の若い芸術家たらんとする諸君に会ってお話しする機会を得たことはわたしの大きなよろこびであります。」と語り、日本独自の優れた美しさが外来安手な見苦しいものに置きかえられてゆくことが遺憾であると例をあげて説き、美術の道に志す我々に対して警告を与えてくれたのである。英語で話されたのであるが翁の柔らかな澄んだ響きの声、一篇の詩の朗詠のごとく、快いリズムであった。今までに色々な人の講演を聞いたが、翁の講演は強い印象に残っている。

(以下略)

 ラビンドラナート・タゴール(1861〜1941)は、1913年に『ギタンジャリ』でアジア人として初のノーベル賞(文学賞)を受章した人です。日本好きで1916年に初来日したのを皮切りに3度も日本を訪れています。清一が書いているのは1916年のことではないかと思われます。

 東京美術学校西洋画科では、学生の卒業に際して人物画と自画像の2点を制作する決まりになっていました。清一が描いた人物画は『祈』という作品です。原画の行方は知れませんが、図録には作品の写真が収録されています。ここには両手を合わせて一心に祈る素足の老人と、その足元に横臥する人物とが描かれています。清一はなぜこのようなモチーフを取り上げたのかは謎ですが、わたしにはこの老人が清一の祖父・作弥の姿に見えてなりません。幼い日々を雨引村の実家で祖父母とともに過ごした清一にとって、彼等に対する思慕の念は非常に強かった筈です。『祈』の画面に描かれているのは、孫の清一が一人前の職業画家として大成することを祈る作弥と、清一が美術学校へ入学した年に世を去った祖母・せいではないかと想像してしまうのです。(清一の祖父母のことについては「今月の一枚」2002年11月号の『筑波山』をご覧下さい)。







▲東京美術学校第28回西洋画科 卒業式記念写真
(1919年3月24日撮影)

(前列左から)
小林万吾教授、中村勝次郎助教授、久米桂一郎教授、黒田清輝教授、藤島武二教授、岡田三郎助教授、島崎敏夫

(第2列左から)
能勢亀太郎、澤枝重雄、里見勝蔵、蘆立文雄、岡田富蔵、大内斎、野口六蔵、鍋山伴六、渋谷重保

(第3列左から)
宮坂勝、西村叡、吉岡貫一郎、頓野保彦、鈴木清一、井澤龍海、宮原七二、藤谷俊造、大津逸次、

(後列左から)
崔国瑤、武井武雄、岡部敬之助、斎藤廓、小野麟之助、高橋渉之助、小原整、紙谷万吉




清一が1921年に描いた『初秋の丘』が第3回帝国美術展覧会に初入選し、これを契機として彼の本格的な画壇活動が始まります。
なお、この『初秋の丘』は翌1922年4月20日から6月15日まで、パリのグラン・パレに開催された「日仏交換美術展」に中村彜の『エロシェンコ氏の像』など、日本画156点、西洋画34点、彫刻19点とともに出品されました。


▲鈴木清一作『初秋の丘』(1921年)
油彩・カンヴァス、焼失?
第3回帝国美術展覧会図録から複写



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