バックナンバー 2003年 9月号


このページでは、鈴木清一の作品を毎月一点づつ取り上げ、作品にまつわる話題などとともにご紹介していきたいと思います。

バックナンバー

2003年 2002年 2001年

8月:『石廊岬』
7月:『婦人像』
6月:『水戸弘道館』 
5月:『布引の新緑』
4月:『山ざくら』
3月:『水仙』

2月:『早春の六甲』
1月:『小菊』

12月:『根室原野の鶴』
11月: 『筑波山』 
10月: 『篠原本町の庭』   
9月: 『八千代像』  
8月:『九歳の八千代』  
7月:『会下山風景』
6月:『舞子の松』
5月:『赤い本』

4月:『菊池辰重氏像』
3月:『代々木風景』
2月:『春のうた』
1月:『雲と牛』
12月:『天王山農場』
11月:『初秋』

10月:『月見山風景』
9月:『孔雀』

今月は清一が日米開戦前の1940(昭和15)年頃に月見山で描いた
『窓からの風景』をご紹介します。
今から60年余り前の神戸の美しい郊外の風景をお楽しみ下さい。



▲鈴木清一作『窓からの風景』
(1940年頃)
油彩・板、23.7×33.2cm
個人蔵(神戸市須磨区)

 

 1931年3月に八千代と結婚した清一は、神戸市湊西区(現在の兵庫区)会下山で2年余り暮らした後に、現在の神戸市立須磨離宮公園に程近い須磨区月見山町に借家を見つけて引っ越しました。子供が3人になり、さらに清一に弟子入りした佐伯久(「今月の一枚」2002年7月号の『会下山風景』をご覧下さい) も家族の一員となったので、会下山の家が手狭になったからでした。

 いま離宮公園があるところは、戦後の一時期、アメリカ軍の射撃練習場になっていましたが、それ以前は皇室が所有する武庫離宮で、21万平方メートルに及ぶ広大な敷地は高い頑丈な鉄柵で囲まれていました。離宮の南側には赤松の林が点在する閑静な住宅地が広がっていました。高台へ上がると瀬戸内海が望めるという自然環境に恵まれた土地柄から、この界隈には角野判治郎、福島金一郎、山本広洋、山本大慈らの職業画家や、丸山芳夫や増田豊太郎らの日曜画家、それに詩人の竹中郁らが住んでいました。また、早くから別荘や大邸宅も盛んに建てられていました。
 清一の家は古い木造の2階家で大正期に建てられたと聞きました。彼のアトリエだった2階の窓からは、離宮の森や付近の松林、陽光に輝く瀬戸内海と淡路島、さらには遠く紀伊半島まで眺望できたのです。清一にとってはアトリエに坐ったまま「窓から描く」ことができる素晴らしいところでした(「今月の一枚」2001年10月号の『月見山風景』をご覧下さい)。ここで生まれ育ったわたしにとっても懐かしい家でしたが、1995年の大地震で倒壊してしまったのは残念でなりません。





▲清一の一家が住んでいた月見山の家(1963年頃撮影)
清一はこの家の2階をアトリエに使っていました。


 この『窓からの風景』に描かれているのはアトリエの窓から北東方向を見た風景です。
 住まいのすぐ北側には野菜畑が広がっていて、その先の短い坂道を上って少し行ったところに天井川が流れていました。坂の上から南の方を見ると松林の間から海が光って見えました。ここには「風致地区」と記した大きな標識が立っていました。

  画面中央から左にかけて見える木立は天井川沿いの桑の木で、その向こうの赤松の林は神戸銀行頭取の岡崎邸の庭でした(現在は神戸市立離宮植物園になっています)。また、手前に描かれている斜めに立つ木はヤマモモの老木で、その右手前には広い松林がありました。
  この松林は清一と彼の弟子たちが繰り返し描いたお気に入りの場所でした(「今月の一枚」2002年6月号の『舞子の松』をご覧下さい)。山陽電鉄の月見山駅から歩いてわずか5分足らずの場所でしたが、静かで豊かな自然に囲まれた美しいところでした。



▲鈴木清一作『月見山の松林』(1935年頃)
鉛筆/水彩・和紙、35.3×27.8cm
個人蔵(神戸市須磨区)


 ところで、この作品には平和な月見山の風景が描かれているのですが、これが描かれた当時の世情は決してこの絵のような状況ではありませんでした。 泥沼化した日中戦争の出口を求めて、日本はさらなる大戦争への道をまさに歩み出そうとしていたのです。
  1940年10月には全政党が解散して「臣道実践」をスローガンとした衆議統制機関としての大政翼賛会が発足し、ここに「聖戦」への挙国一致体制が確立したのです。

 これより先、内務省は全国民を戦時体制に組み込むための末端行政補助機関として、部落会・町内会・隣組の組織を全国的に整備し、生活物資の配給、金属類の供出、貯蓄、防空演習などを組織的に実施できるようにしました。小学校が国民学校となり、学童が少国民と呼ばれるようになったのもこの頃でした。

 月見山ではこの松林で町内会の常会がよく開かれていました。避難・救助訓練やラジオ体操もここで行われました。下の写真は1943年8月頃に撮影された町内会の写真です。この「今月の一枚」を毎月ご覧下さっている方には、清一と八千代の顔はすぐにお分かりになるでしょう。わたしは「少国民」になったばかりの国民学校の1年生でした。



▲松林に集まった月見山町内会の人々(1943年8月頃)

 戦争が激しくなり、資源不足が深刻化してくると、寺院の仏具や梵鐘などの強制供出が始まりました。一般家庭からも金属製品が供出されるようになり、清一の家からは鉄の門扉が真っ先になくなりました。離宮を取り巻いていた鉄柵も竹柵に替わりました。

  1945年3月17日には神戸大空襲があり、市街地は一夜にして廃墟と化しました。標的を外れた焼夷弾が月見山にも落ちて離宮の御殿が全焼しました。鋭い唸りを立てて落ちて来た一発の焼夷弾が清一のアトリエの庇を貫いて、庭先で激しく燃え上がりましたが、すぐに濡れ布団をかけて消し止めたので、辛うじて家屋の焼失は免れました。しかし、町内には家財のすべてを失った気の毒な方も少なくありませんでした。

 長かった戦争が終わり、焼け跡や空き地にぼつぼつ住宅が建つようになりました。やがて松林や畑も次々と住宅地に変わり、大きな屋敷跡は細分されて小さな住宅が密集するようになりました。決定的に大きな変化は阪神高速道路神戸線と第2神明道路の開通でした。天井川の両岸には高架道路を支えるコンクリートの橋脚が立ち並び、かつて風致地区の標識が立っていた付近には高速道路の出入口ができました。

 1954年になって、清一の一家は須磨区関守町に転居したので、月見山周辺に起った大きな環境変化を身近に経験することはありませんでした。今でも月見山といえば、わたしの脳裏に浮かんでくるのはこの『窓からの風景』に描かれた風景なのです。ここには「古きもっとも良き時代」の月見山が描かれているのです。



▲60余年前の月見山の面影を微かに残している坂道。
畑だった坂の両側には住宅が密集し、
前方には巨大な高架高速道路が迫っています。
かつての風致地区の標識は
この坂道を上がったところに立っていました。






▲天井川に覆い被さるように走る高架高速道路。
前方にわずかに見える樹木は
旧・岡崎邸(現・須磨離宮植物園)

 


  戻る  トップページへ  このページのトップへ