2004年 4月号


このページでは、鈴木清一の作品を毎月一点づつ取り上げ、作品にまつわる話題などとともにご紹介していきたいと思います。

バックナンバー

2004年 2003年
3月:『倉敷の家』
2月:『早春』
1月:『自画像』

12月:『少女』 
11月:『秋深まる』 
10月:『染付け皿と秋果』
9月:『窓からの風景』 

8月:『石廊岬』
7月:『婦人像』
6月:『水戸弘道館』 
5月:『布引の新緑』
4月:『山ざくら』
3月:『水仙』

2月:『早春の六甲』
1月:『小菊』
2002年  2001年
12月:『根室原野の鶴』
11月: 『筑波山』 
10月: 『篠原本町の庭』   
9月: 『八千代像』  
8月:『九歳の八千代』  
7月:『会下山風景』
6月:『舞子の松』
5月:『赤い本』

4月:『菊池辰重氏像』
3月:『代々木風景』
2月:『春のうた』
1月:『雲と牛』
12月:『天王山農場』
11月:『初秋』

10月:『月見山風景』
9月:『孔雀』

今月は、『鬼塚貫一氏像』をご紹介します。

鬼塚貫一像

鈴木清一作『鬼塚貫一氏像』(1975年)
油彩・キャンヴァス、41.0×32.0cm
個人蔵(神戸市垂水区)



 この作品は清一が80歳を迎えたのを記念して、木曜会会員の鬼塚貫一氏に贈ったものです。

 木曜会というのは、三菱重工業神戸造船所に勤務する絵画好きの技術者・鬼塚貫一氏が有志を募って1932年5月に創設した洋画同好会で、発足当初は神戸洋画会の中山正実氏が講師を務めましたが、1933年1月から清一が後を引受けることになりました。
  以来、鬼塚氏と清一の親友付き合いは1979年に清一が没するまで続きました。

 戦中から戦後にかけて木曜会は活動を休止していましたが、1951年10月になって鬼塚氏の呼びかけで復活し、清一は再び講師を引受けることになりました。後に鬼塚氏は木曜会創設当時からの思い出を感慨深げに「木曜会由来記」として書きました 。

 





▲第2回木曜会作品展(三菱和田倶楽部、1933年7月2日)

前列中央が清一、後列左端が鬼塚貫一氏、
前列左端が丸山芳夫氏

木曜会由来記


1957年4月1日

 昭和7年5月、何が動機ということもなく、中山正実画伯指導のもとに、三菱電機からの参加者も含めて25名が木曜日ごとに油絵の稽古を始めた。場所は養和会支部和田倶楽部、ほとんどが初めての者ばかりだったが、いきなり勇ましく油絵具と取り組んだ。

 同年11月、中山先生が上京されるのを機会に、第1回の作品展覧会が和田倶楽部で開催された。会名が木曜会と定められたのはこの頃であったと思う。出品者20名、作品数81点、構内の要所に掲示したポスターが利いてか、相当の入場者があった。





▲第13回木曜会作品展目録

(1938年12月)

 中山先生の後、引き続いて鈴木清一画伯に指導していただいたのであるが、木曜会がその後10年間、堅実な歩みを続け得たのは一に先生の熱心なご指導によるもので、今さらながら感謝に堪えない次第である。


 爾来、展覧会は春秋2回、華々しく開催されたが、落選の憂き目を見ない素人なりの楽しいものがあった。第3 回目以後は作品目録の表紙絵を先生に描いていただき、紙質を吟味するなど、目録だけは日本一豪華なものを拵えた。郊外スケッチ。始めの頃は月1回程度だったのが、春秋の快適なシーズンにはほとんど毎日曜日に出掛けた。戦時中は海抜20メートル以上の高所からのスケッチはスパイ行為として厳禁され、旅行中、かりそめのスケッチにも何かと窮屈な思いをさせられた。戦争に負けてもっとも良かったと思われることは、どこでも自由に絵が描けるようになったことである。それにしても、つい近郊のとっておきのここかしこが、無惨に荒らされて惨めな姿になってしまった。


 昭和10年から12年春にかけて、第7回から10回の展覧会は敢然街頭へ進出した。会場は三菱電機元町陳列所。内容はともかく、会の雰囲気としては正に黄金時代であった。

 昭和18年6 月、10周年記念ならびに会の元老、故丸山芳夫氏の転任送別記念を兼ね、第20回作品展を開催したが、これを最後に大戦の様相苛烈となるにおよび、木曜会は無期中止の止むなきに至った。

 昭和26年10月、新木曜会が廃墟の中から逞しく再起し、しかも因縁浅からぬ鈴木先生に再び指導していただく幸運に巡り合わせたことは、何という幸せであろうか。会員の中には父子2代にわたる人たちもいる。
 昭和7年発足以来25年、正に世紀の4分の1が過ぎた。その間、会に籍を置いた人々の数はおよそ200名にも及んだであろう。なかにはすでに故人となった人もあり、当時の公達も鬢髪あるいは白く、四散して相見ゆる機会もないが、それぞれに当時の絢爛たる雰囲気を回想しながら、ひそかに心を温めていることであろう。

 再起後すでに6か年、満を持した新木曜会が第1回作品展を開催するに当たり、木曜会の由来を記し、あわせて新木曜会の堅実な発展を期待かつ熱望して止まない 。

 


▲ 明石公園で写生を楽しむ鬼塚貫一氏
(木曜会郊外スケッチ、1977年頃)

 鬼塚氏は木曜会で描いていただけではなく、清一に勧められて戦前の兵庫県美術家聯盟(戦争が始まってからは兵庫県新美術聯盟となる)の会員になり、年2回の聯盟展に盛んに出品していました。さらに彼は定年退職後、自宅の庭にアトリエを建て、生涯の愉しみとして絵を描き続けました。
 そんな鬼塚氏と清一とはうまが合わない筈はありませんでした。お互いを「おにやん」「先生」と呼び、大好きなお酒を飲みながら絵の話を始めると、二人とも時間が過ぎるのをすっかり忘れてしまうようでした。

 清一は1979年11月27日に84歳の生涯を閉じました。鬼塚氏は葬儀に駆けつけて、心暖まる感動的な弔辞を述べて会葬者の涙を誘いました。その彼はその後も元気に描き続けましたが、1996年10月14日に95歳でこの世を去りました。


▲ 右から鬼塚貫一氏、清一、鬼塚夫人・利子氏
(神戸市垂水区の鬼塚氏宅で、1974年)

 


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