バックナンバー 2004年 7月号


このページでは、鈴木清一の作品を毎月一点づつ取り上げ、
作品にまつわる話題などととしていきたいと思います。

バックナンバー

2004年 2003年
6月:『月見山の家の庭』
5月:『舞子の風景』

4月:『鬼塚貫一氏像』
3月:『倉敷の家』

2月:『早春』
1月:『自画像』

12月:『少女』 
11月:『秋深まる』 
10月:『染付け皿と秋果』
9月:『窓からの風景』 

8月:『石廊岬』
7月:『婦人像』
6月:『水戸弘道館』 
5月:『布引の新緑』
4月:『山ざくら』
3月:『水仙』

2月:『早春の六甲』
1月:『小菊』
2002年  2001年
12月:『根室原野の鶴』
11月: 『筑波山』 
10月: 『篠原本町の庭』   
9月: 『八千代像』  
8月:『九歳の八千代』  
7月:『会下山風景』
6月:『舞子の松』
5月:『赤い本』

4月:『菊池辰重氏像』
3月:『代々木風景』
2月:『春のうた』
1月:『雲と牛』
12月:『天王山農場』
11月:『初秋』

10月:『月見山風景』
9月:『孔雀』

今月は、『丹頂鶴』をご紹介します。



▲ 写真A 鈴木清一作『丹頂鶴』
(1941年頃)
油彩・キャンヴァス、145.5×97.0cm
個人蔵(神戸市須磨区)


優雅な姿をした3羽の丹頂鶴が水辺に佇んでいます。右側の一羽は大きく翼を広げ、今にも舞い上がろうとしているように見えます。中央の一羽は大きな鳴き声を上げているのでしょうか。左側にいる一羽は長い首を後ろへ曲げて、背中に潜んだ虫の退治に余念がありません。

淡いピンク色に染まる雲を映した透き通るような青い水面と、頭上に垂れ下がった濃緑色の木の葉が、画面全体に柔らかい雰囲気を醸し出しています。



清一の遺品の中に、木枠から切り取った数枚のキャンヴァスが見つかりました。直径30cm位の筒状に巻いて紐で縛ってあったのです。

彼の死後も長らくそのままの状態になっていたのですが、いつまでも放置しておくわけにもいかないので、おそるおそる広げてみると、この『丹頂鶴』とともに『初秋』(2001年11月号)『雲と牛』(2002年1月号)など、4点の作品が姿を現しました。巻いたまま納戸の奥に仕舞い込んであったので、どれも絵の具が剥落して、見るも無惨な状態になっていました(写真B)。画面の汚れも相当ひどく、全体に暗い感じでした。

清一が作品をこんな方法で保管せざるを得なかったのは、住宅事情によってのことでした。転居に際して廃棄処分にした作品も何点かあったぐらいですから、この4点はたとえ筒巻きにしてでも、手元に残しておきたいとの特別の思い入れがあったのでしょう。こう考えたわたしは、これらを美術品修復の専門家の手に委ねて甦らせることにしたのです。
▲ 写真B 修復前の『丹頂鶴』(2001年4月に撮影)

こうして完全に修復された『丹頂鶴』(写真A)は2001年10月に開かれた「鈴木清一回顧展に出品することができたのですが、この時点ではこの作品がいつ、何のために描かれたのかはハッキリしていませんでした。わたしはこの絵を清一の部屋で見たことはあるものの、それがいつごろのことだったのか、記憶がはっきりしないのです。不思議なことに、この作品には制作年はおろか署名すら入っていません。署名のない作品を展覧会に出したとは考えにくいし、さりとて80号大の絵を出展の意図もなく描いたとも考えにくいのです。

この謎を多少とも解く手がかりとなったのが日付のない1枚の写真でした(この下にある「写真C」)
額縁に入れた『丹頂鶴』を背に、女性の姿を鉛筆でスケッチしている清一が写っています。年齢は50前後ぐらいに見えます。厚手の上着の下に長袖のセーターを着ているところから、季節は冬のようです。よく見ると、上着の襟に鳥が翼を広げたような形をしたバッジが着いています。1942年10月に清一が作成した履歴書を見ると、彼は1941年10月に大政翼賛会(1940年10月に発足した国民総動員のための上意下達組織)の推進員を委嘱されたと記されているので、これは翼賛会のバッジだと思ったのですが、調べてみるとそうではありませんでした。

この履歴書には、1941年9月に大阪毎日新聞社神戸支局主催の模型航空機展覧会の審査員を委嘱されたとも記されています。そこで、神戸市立中央図書館が所蔵するマイクロフィルムで当時の大阪毎日新聞(神戸版)を調べてみると、この展覧会は1941年9月16日から神戸大丸で開かれており、9月21日には大倉山公園で模型航空機競技県大会も開かれていたことが判明しました(この下にある「写真D」)。しかも、彼が上衣の襟に着けていたのがこの大会のバッジだったのには驚きました。

こうして、この写真は1941年9月以降の冬 --- おそらく1941年末から1942年2月頃にかけて撮影されたものと推測したのです。



▲ 写真C 
『丹頂鶴』を背に月見山の自宅でスケッチをする清一
(1942年1月の撮影)
▲ 写真D 
1941年9月21日付の大阪毎日新聞(神戸版)に掲載された
全日本模型航空機競技県大会の社告。
清一は模型航空機展とともに、
競技県大会審査員も委嘱されていました。



次に、この清一の写真はキャビネ版の印画紙に焼かれており、撮影後60年以上も経過しているのにまったく変色していないところから、プロが写した写真 --- 当時の清一はしばしば新聞に写真入りで報じられていたので、ことによると新聞社のカメラマンが写したものではないかと考えて、1941年12月から1942年2月までの新聞をしらみつぶしに調べてみたところ、1942年1月30日付の神戸新聞にこの写真が掲載されているのを見つけたのです(写真E)。予想が見事に適中し、わたしは小躍りして喜びました。

これは翼賛運動に挺身する人たちを紹介する「わが町の推進譜」という連載記事でした。
ここには「気骨の画家、鈴木清一氏」という見出しに続いて、「文化人街道をゆく--- 翼賛運動の基調として新生面に発足した文化力を直ちに町内の革新運動に注ぎ、『手近なところの臣道実践』を標榜、その強い指導力で住宅街生活の戦時様式を打樹てている異彩の画伯・推進員、熱血の文化人がある ... 」と清一の活動ぶりが紹介されています。

神戸新聞の記者の訪問を受けた清一は、おそらくカメラマンの求めに応じて彼の「最新作」を背にポーズをとったのでしょう。

▲ 写真E:神戸新聞、1942年1月30日

 このように考えてくると、この『丹頂鶴』は1941年に描かれた可能性が高いように思われます。前年の1940年10月に東京府美術館(現在の東京都美術館)で開かれた紀元2600年奉祝美術展に『雲と牛』(2002年1月号)を出品したのを最後に、清一はなぜか官展への出品を止めてしまいました。台湾旅行中で作品を搬入しなかった第8回帝展(1927年)を除いて、第3回帝展(1921年)に初入選して以来、連続17年間の官展出品歴に終止符を打ったのです。日米開戦前夜という当時の不穏な世情や、大政翼賛会推進員という彼の社会的立場などを考慮すると、もう官展へ出品することなど、とても考えられなくなっていたのかも知れません。
 今となっては真相を知る術もありませんが、この
『丹頂鶴』は1941年秋の第4回新文展へ出品(彼は1936年に新文展無鑑査の資格を得ていた)するために制作したけれども、間もなく彼の気が変わって、作品を搬入しなかったのではないでしょうか。


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