2004年 12月号


このページでは、鈴木清一の作品を毎月一点づつ取り上げ、
作品にまつわる話題などととしていきたいと思います。

※今月までのバックナンバーは、ページの最下段をご覧下さい。


今月は、『山本五十六元帥の生家』(1943年)をご紹介します。

▲ 図1 鈴木清一作『山本五十六元帥の生家』(1943年)
水彩・紙、43.4x29.5cm 個人蔵(神戸市須磨区)


清一の遺品の中に600枚を超えるスケッチがあります。水彩、鉛筆、あるいはパステルによる風景画が多いのですが、ほとんど日付も場所も入っていないので、いつどこで描かれたのかを特定するのは容易ではありません。今月のこの水彩画も長らく素性が分からなかったのですが、最近になって制作年と場所を特定することができたので、ここにその概要をご紹介することにいたします。

日米開戦からわずか半年後の1942年6月に、日本軍はミッドウェー海戦で決定的敗北を喫し、さらに翌年3月にはガダルカナル島から撤退、日本軍は緒戦の勢いを失って太平洋戦争の戦況は完全に逆転するに至りました。さらに追い討ちをかけるように、4月18日に連合艦隊司令長官・山本五十六提督の搭乗機がブーゲンビル島上空でアメリカ軍に撃墜されました。山本は元帥の称号を贈られ、6月5日に国葬が営まれました。山本の死は国民に前途の暗雲を思わせる悲痛なニュースでした。当時、わたしは国民学校の1年生でしたが、校長先生から朝礼でこの話を聞いた60余年前のことを微かに覚えています。

両親からも山本元帥戦死の話は聞いたことがあり、黒い帯布を添えた国旗が玄関先に立ててあったことや、父が山本元帥の生家を描くために新潟県まで出掛けたことを聞いた記憶があります。しかし、実際に絵を見た覚えはまったくありません。清一のスケッチの中に粗末な建物を描いた数枚の水彩画があり、あるいはこれがそうではないかと想像してはみても決め手がありませんでした。そこで、1943年4月以降の新聞記事を図書館で調べてみることにしたのです。結果は案ずるより産むが易しでした。清一の「山本元帥の生家を訪ふ」という挿絵入り紀行文(図2)と、彼がアトリエでスケッチを基に油彩画を制作している写真入りの記事(図3)を見つけたのです。挿絵に描かれていたのは、まさに冒頭に掲げた水彩画(図1)と同じ建物でした。

これらの新聞記事によると、清一は山本元帥の国葬が営まれる5日前の6月1日に新潟県長岡市玉蔵院町にあった生家を写生し、帰宅後、おそらく2点の油彩画を仕上げて「山本元帥遺墨展」に出品していたことが分かりますが、現在ではこの油彩画の行方は分かりません。なお、この展覧会は大政翼賛会兵庫県支部が主催し、神戸地方海軍人事部、朝日・毎日・神戸の各新聞社の後援で6月8日から13日まで神戸大丸で開かれています。

清一は「山本元帥の生家を訪ふ」の中で次のように書いています。

「この貧しいささやかな古ぼけた家と、米英を震ひ上がらせた海の提督わが聯合艦隊司令長官山本五十六閣下との繋りをしきりに考へてみたが、どうしてもピッタリとこない。貧しさ以外に何もない元帥の生家の庭に立って深い感傷に落ちていると、いつか神のみ社の御前にあるごとき敬虔な心になり、涙の虹を通して元帥の生家が五彩に映るのであった。この貧しさこそ今や日本の尊い存在として国民の感激と崇敬の念を燃やさずにはおかぬであらう。」

 

▲ 図2 鈴木清一 絵と文
「山本元帥の生家を訪ふ」(1)

毎日新聞神戸版、1943年6月6日

 
▲ 図3 神戸新聞、1943年6月6日


ところで、清一は旅先の長岡から丸山芳夫に手紙を送りました。丸山は三菱重工神戸造船所の絵画同好会・木曜会の創設以来の熱心な会員の一人で、1943年に神戸から東京へ転勤になり、木曜会の活動からは離れていましたが、清一とは師弟以上の付き合いをしていました。清一は丸山から次のような返信を受け取りました。

「久振りに長岡からのお手紙頂き誠に嬉しく存じます。翼賛会の御仕事が御多忙の由どうかとお案じ申居りました。何をやっても報国でございませうが矢張自分の職域で報国が出来るのが一番ではないかと存じます。戦国時代が暗黒時代ではこまります。戦が勝つとも芸術が矢張り燦然としておらねば駄目です。どうか後世にのこるやうな傑作を出して下さい。黒田さんも政治家として研究会の幹部であったよりも画家としての「朝粧」が後世に残るのではないでせうか。どうか妄言ではありませうが他山の石として御考慮願います。(後略)」

丸山は兵庫県美術家聯盟の会員でもあり、1936年の新文展鑑査展に『初秋』 (「今月の一枚」2002年6月号参照)が入選する程の腕前でした。絵画では清一の弟子でも、人生経験では彼の師である丸山が大政翼賛会の活動に打ち込む清一にちょっぴり意見をしたのでした。清一はこの手紙を終生大切に残していました。きっと感じ入るところがあったのでしょう。


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