このページでは、鈴木清一の作品を毎月一点づつ取り上げ、
作品にまつわる話題などととしていきたいと思います。
※今月までのバックナンバーは、ページの最下段をご覧下さい。
今月はいくぶん趣向を変えて、戦争中の清一のスケッチブックから
『街頭スケッチ』(1943 年) をご紹介することにいたします。
当時の世相を反映した女性の服装にご注目下さい。
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▲ 図1:鈴木清一作『街頭スケッチ(その1)』
(1943年) 水彩・紙、20.5x14.6cm, 個人蔵(神戸市須磨区) |
街角で立ち話をしているこの二人の女性はなかなかオシャレに見えます(図1)。
もしもいま、この二人に街でばったり出会ったとしても、ほとんど違和感がないのではないでしょうか。いやそれどころか、かなりセンスのいい女性だと思うかもしれません。花束を提げた左の女性が赤い半袖のシャツを着ている以外は、二人とも黒い無地のもんぺを穿き、まことに地味な服装をしています。特に右側の女性は上から下まで黒づくめです。強いて探せば、上着の下に白いブラウスを着ていることぐらいでしょう。
この絵は今から62年前の1943(昭和18)年に、神戸の街頭で見かけた女性の姿を描いたものです。1941年12月に始まった太平洋戦争は、緒戦では日本軍が破竹の勢いで進撃を続けました。しかし、1942年6月のミッドウェー海戦で決定的な大敗を喫してからは守勢にまわり、1943年3月にガダルカナル島から撤退、4
月には連合艦隊司令長官山本五十六の戦死、5月にはアッツ島守備隊全滅と、悪いニュースばかりが続き、日本中が暗胆たる空気に包まれるようになっていきました(今月の1枚・2004年12月をご参照下さい)。このように、1943年という年は戦局が暗転した年だったのです。
これより少し前の1940年11月に「国民服令」が制定され、成年男子はカーキ色の国民服にゲートル(巻き脚絆)を巻き戦闘帽を被ること、女子は子供ももんぺを穿くことが推奨されました。もんぺというのは袴のような女性の仕事着で、腰回りをゆったりとって上着の裾を中に入れ、足首のところでトレーナーのようにしぼったものでした。当時の女性は今まで着ていた着物を、泣く泣くもんぺに仕立て直さなければなりませんでした。国民服以外の服装をしていると、周囲からすぐに「非国民」呼ばわりされるような窮屈な世の中だったのです。
当時、清一は兵庫県新美術聯盟常任委員長、兵庫県翼賛文化聯盟理事、翼賛壮年団須磨区団長などの公職にあって、忙しい毎日を送っていました。わたしはこの年の4月に神戸市立西須磨国民学校へ入学しました。入学式の記念写真(図2)には、国民服を着て戦闘帽を被った清一が写っています。校長も国民服姿で写っています。母親たちの下半身が写っていないので、もんぺを穿いているのかどうか分かりませんが、まだかなりの人は着物を着ているようですし、担任の女性教諭はスカートを穿いています。
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| ▲ 図2:神戸市立西須磨国民学校入学記念写真 (1943年4月) 父兄の前列左から二人目に立っているのが清一、 前列右端の清瀬校長から二人目がわたしです。 なお、左端に立っているのがクラス担任の越智先生です。 |
この清一のスケッチブックには、18枚のクロッキー(速写)に30人の女性が描かれています。彼は当時、毎日新聞神戸版にしばしばカットや挿絵を描いていたので、これらのスケッチは取材を目的としたものだったのでしょう。全部をお見せできないのが残念ですが、あと4枚だけご覧いただくことにいたします(図3〜6)。
質の悪い再生紙を糸で綴じただけの小さな粗末なスケッチブック --- そこには窮屈な世の中にあっても、当時の女性が精いっぱいのオシャレをしようとしていたことが記録されているのです。
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