- ご 案 内 - |
||||||||||||
|
鈴木清一の画集と伝記が一冊の本になりました! 『孤高の画家・鈴木清一の作品と生涯』 |
||||||||||||
|
今月は『今月の一枚』をお休みして、清一の画集と伝記をまとめた新刊書『孤高の画家・鈴木清一の作品と生涯』をご紹介することにいたします(6月中旬発売予定)。 |
||||||||||||
|
||||||||||||
『孤高の画家・鈴木清一の作品と生涯』 目次 口絵
|
||||||||||||
|
1895(明治29)年に茨城県で生まれた清一は、県立水戸中学校を経て東京美術学校西洋画科へ進み、黒田清輝と藤島武二に師事しました。1921(大正10)年、彼が美術学校研究科在学中に描いた『初秋の丘』が第3回帝国美術院美術展覧会(帝展)に入選して以来、連続12回帝展入選を果たし、1936(昭和11)年に改組された文部省美術展覧会(新文展)の無鑑査となってからも、1940(昭和15)年まで招待出品を続けました。 この間、彼は1930(昭和5)年に知人の招きで神戸へ移住し、結成後間もない兵庫県美術家聯盟に参加、川西英、林重義、小磯良平、田村孝之介、小松益喜らと戦前の兵庫洋画壇の黄金期を築きました。画壇活動の実績と指導力を買われた彼は、間もなく美術家聯盟の常任委員代表に選ばれましたが、このことが後に、職業画家としての彼の人生における重大な岐路になったことは運命とはいえ皮肉なことでした。 第1次大戦後のつかの間の平和は、1937(昭和12)年の日中全面戦争の開始とともに終りを告げ、政府による戦争貫徹のための国民総動員体制 --- 国策への即応体制が求められるようになりました。既存の各種文化団体についても、大政翼賛会の手で統合再編成が推進された結果,、兵庫県美術家聯盟は兵庫県美術協会と統合され、兵庫県新美術聯盟が誕生し、新聯盟の常任委員長を命ぜられた清一は、急速に戦争協力機構の中へ組み込まれていきました。 1945年(昭和20)年8月、日本は連合国に無条件降伏し、長い苦しい戦争は終わりました。清一はいわゆる戦争画を一枚も描いたことはなく、従軍画家として日本軍の占領地へ派遣されたこともなかったのですが、200人を超える新美術聯盟会員の先頭に立って「彩管報国」に奮励努力したことはまぎれもない事実でした。敗戦の日を境にして、それまでの価値観がすっかり逆転した戦後の大混乱期の中にあって、清一が道義的責任を強く感じていたことは間違いなく、戦後間もなく再開された兵庫洋画界の活動を尻目に、彼は一切の画壇活動から潔く身を引く道を選んだのでした。 画壇からひっそりと姿を消した清一は、私学の美術教師や日曜画家の指導などに戦後の人生を捧げました。その一方で彼は、生活がどんなに苦しいときでも絵筆を離そうとはせず、黙々と孤高の制作を続けました。生活のためではなく、絵を描くことが彼の生き甲斐だったのです。こうして彼は、1979(昭和54)年に84歳で世を去るまで制作を続け、多くの深みのある作品を残しました。 清一の死後22年が過ぎた2001(平成13)年10月に、こうべまちづくり会館ギャラリーで開催した「郷土の洋画家・鈴木清一回顧展」(埋もれた郷土の文化を掘り起こす)は、マスコミと美術愛好家から暖かく迎えられ、連日大変な賑わいをみせただけでなく、清一作品をもっと見たい、清一のことをさらに詳しく知りたい、次の展覧会はいつ開くのか、画集は出版しないのかなどの、多くのご要望やお問合せをいただきました。 『孤高の画家・鈴木清一の作品と生涯』は、こうした声に励まされて出版した清一の画集と伝記を一冊にしたB5版280ページ(うち口絵64ページ)のハードカバー本(本体価格3,000円)です。口絵には清一の油彩画、水彩画、パステル画、染色図案など、74点の作品が原色版で収録されているだけでなく、伝記のページにも彼の作品を中心に119枚におよぶ写真が掲載されています。 『孤高の画家・鈴木清一の作品と生涯』は6月中旬に発売の予定です。お近くの書店にない場合にも、お取り寄せのうえ、お読み下されば幸いです。 鈴木 耕三 |
||||||||||||
|
||||||||||||